最上階に転落

惨憺たる喜劇であれ

この肉体に還る罪よ

眠れず暇潰しと書いたブログに別れを告げても
カフェインで覚醒させられた脳みそは思考をやめなかった
迎えた早朝4時に私はどうせ5月いっぱいで去る職場なのだからと
ズル休みすることを決めた
虚偽の申告をし今日の休みが確定したところで
私はやはり眠れず
手持ちぶさたに二次創作の小説を読む
今日読んでいたのはSFホラーだった
ネットで撒き散らされる呪いの正体は数年前肉体を捨て精神だけになった悲劇の医者の妄執だった
そんな話
そこで出てきた「どんなに高尚な人間であっても肉体という檻から放たれたとき理性を手放さないことは容易ではない」
この内容に私はたしかに救われたのだ
ここ数日の怒りも失望も悲しみも
私は精神だけでは理性を手放してしまうとは考えていない
少し違う、というか順序の問題かな
この肉体に罪が宿ると考えている
罪の在りかは肉体で、だからみな理性的に振る舞うのだと考えている
私も例外なく
これは前にやっていたブログで散々書いた自己紹介なのだが
私の肉体は私のものではない
この肉体は17歳で飛び降りた、あの少女のものである
彼女は死んだ
たぶん、もう帰ってこないだろう
いつか私がちゃんと治って私が私であると思っても
きっと彼女ではない
それは治療を終えた私であって(生涯治療を終えることはないと思っているが)
また彼女が常に持っていた(持っていると意識すらしなかった)
自身である確信は一生得られない
私は私を偽物だと思っている
でも私が彼女がしなかった治療を続けているのは
彼女の肉体がある限りこの肉体に罪が、責任が、切り離せないものとしてあるから
だから彼女のかわりに私が携えていくのだ、これまでも、これからも
その罪を私のものとする限り
私は本物より本物の彼女である
そう考えているし、これからもその考えを改めることはまずないと思う
でもそれは私の思想だ
そう、気付けた
前置きが長くなった
つい最近、人に思想を押し付けてキレさせてしまったことがある
これはそれに対する返事のようなものだと思って欲しい


私が自分の思想に気付くのは
他人の思想に触れたときだ
物語でも、音楽でも、対話でも
反するようなことを言うが私はたぶんとても内向的な人間で
常に己のなかでぐるぐると詮無いことを考えているし
自分の思想が好きであまり他者から直接的な影響は受けない
でも一人で考えているとき思想が言葉に、形になることは稀で
常に意識として頭にはあるが文章や言葉になるときは
どうしたって他人の思想が必要になる
それを成長だと思っているし
外からの刺激がないものにアップデートは存在しないと思っている
いや、思っていた が正しいかな
私はいまでも自分の中のその考えが間違っているとは思わないが
他者に押し付けるのは私のエゴでしかないと気付いたから
なにを成長の手法とするかは人それぞれだ
今はそう思える
そう思えるようになったのもやはり他人の言葉からの刺激なのだけど
言葉は明確で鋭く確かな形をしている
だから傷つく、傷つける
でもその傷を癒すのも確かに他者の言葉であったから
その傷のことも私は悪いものだと思えない
だから言葉が文章が対話が好きだ
一人で考えているときの尖りきった自分の思想も好きだが
人の思想と触れ合い削られていく共生のための思想も好きだ
それは私が人といたいという、まだなにも諦めていないということだから
これまでも、これからも尖った部分で人を傷つけることもあるだろう
完全な球体になったらつまらないだろう
それでも私は優しい形をしていたい

削り削られて丸くなる